楽校コラム

日本の近代産業は、渋沢栄一の丈夫な胃袋のおかげで育つことが出来た

2014年5月3日 17:35

STAP細胞の騒ぎで有名になった理研(理化学研究所)であるが、この組織の歴史は古く、大正6(1917)年以来というから、ほぼ一世紀近く、日本の科学界をリードしてきた。この理研を創立したのが、日本の産業の父と言われる渋沢栄一である。渋沢は理研の他にも、大学(一橋大学・日本女子大学)、銀行(みずほ銀行)、鉄道(JR東日本)、ホテル(帝国ホテル)、ガス会社(東京ガス)、ビール(アサヒビール))、病院(慈恵会病院)、新聞(日経新聞)などを創設したり、創設に関わったりした。文字通り、現代日本を作った男、と言っていいだろう。
彼は幕末の天保時代に武藏国榛沢郡、現在の埼玉県深谷(ふかや)市に生まれ、若い頃は非常にふり幅の大きい人生を送った。最初は尊王攘夷思想にかぶれて討幕運動に奔走したかと思えば、一転、一橋慶喜の家臣となって重んじられ、慶喜がやがて徳川十五代将軍になると、その弟・徳川昭武に従って、パリ万博に出かけたりした。昭武は万博出席後にそのままパリに留学し、栄一もそのままパリに残って二年間、ヨーロッパ諸国を回ったりし、各地の軍事、産業を視察した。後に彼が日本でさまざまな産業を興したのは、この時の経験からである。
彼はパリの地に足を踏み入れた時にはほとんど語学が出来なかったが、持ち前の好奇心で、次々に最新の知識を学んでいった(彼に語学を教えたのは、あのシーボルトの長男のアレクサンダーである)。なぜ彼がそこまでヨーロッパに溶け込めたかというと、秘密があり、この時代の日本人がたいてい、海外に行って辟易するバターやコーヒーの味が大好きだった、というのが大きな要因になっている。彼の渡欧日記を読むと、「ブール(バターのフランス語読み)と云、牛の乳の凝たるを、パンへぬりて食せしむ。味甚美なり」「食後、カツフエーという豆を煎じたる湯を出す。砂糖、牛乳を和して之を飲む。頗る胸中を爽にす」などという記述がある。
他の随員が日本食を懐かしがり、お茶漬けが食べたいなどと嘆いている中で、栄一のこの西洋料理へのなじみ方は江戸時代の人としてちょっと驚異的である(もっとも、日本食が嫌いということもなく、生まれ故郷の深谷に帰ると、名物のほうとう《ひらべったいうどんのようなもの》を喜んで食べたという。おいしいものなら何でもよかったのだろう)。明治維新以降も渋沢の食べ物への強い好奇心はゆらぐことなく、また、その胃袋の丈夫さも晩年まで衰えず、『東京パック』など当時のマンガ雑誌で何度もその旺盛な食欲をからかわれている。
彼はその健啖と栄養摂取の万全ぶりで、健康を保ち、91歳の天寿をまっとうした。
彼がまいた近代産業の種は見事に日本に根付き、華を咲かせたが、その元となったのは、産業の父・渋沢栄一の、丈夫で何でも食べる胃袋だった、と言えるだろう。

「渋沢栄一Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80

 

<前の記事【】 次の記事【】>