国語

ゴーストライターも多かった? 平安時代の和歌

2014年2月19日 13:21

平安時代、貴族や宮廷女房にとって、和歌を詠むことはたしなみだった。とはいえ、すぐれた和歌を創作することは簡単ではない。それゆえ自信のない人が達人に代作を依頼することもあったようである。『百人一首』の「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは」(約束しましたね。お互いに着物の袖をしばり、あの末の松山(※1)を波が越すことがないように、決して心変わりなどしないと)という和歌は、清少納言の父である清原元輔が、宮廷女房に頼まれて創作したものと考えられている。

『百人一首』の「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」(「大江山へ行く野の道(「生野(※2)の道」と掛けている)は遠いので、文(手紙。「文」と「踏み」を掛けている)も貰っていませんし、天橋立も見たことがありません」という歌は、小式部内侍の作。彼女は幼少の頃より和歌を詠んだが、できが良いので母である和泉式部が代作しているという噂が絶えなかった。あるとき、和泉式部が夫の藤原保昌とともに丹後に出かけているときに、京都で歌合があり、彼女も参加することになった。その日、中納言定頼卿が「母に代作してもらった和歌を受け取るために丹後に派遣した使者は戻りましたか」と彼女をからかった。これを受けて、彼女が読んだのがこの歌である。地名を入れ、掛詞を駆使した和歌を即座に詠んだことで彼女の疑いは晴れ、評判はますます高まった。

(※1)陸奥(みちのく)の古地名。岩手県二戸(にのへ)郡一戸の浪打峠、宮城県多賀城市八幡の末の松山八幡宮付近などの説がある。

(※2)京都府福知山市字生野(あざいくの)

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