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藤原定家、熊野御幸ではパシリ役(その1)

2014年7月1日 18:56

平安後期から鎌倉初期にかけて活躍した藤原定家(ふじわらのさだいえ、歌の世界ではふじわらのていかと読まれることが多い)。『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』(しんちょくせんわかしゅう)の編纂に関わるとともに、『小倉百人一首』を一人で編纂したことでも知られる。大歌人として優雅に暮らしているイメージを持たれがちだが、その人生は決して平たんではなかった。それを象徴しているのが、1201年に後鳥羽上皇の熊野御幸(くまのごこう。「御幸」は、上皇・法皇・女院の外出のこと)に同行した時の様子である。当時、法皇や上皇が熊野を訪れる際は道中で和歌の会がしばしば開かれた。当然、定家もその場に呼ばれて歌を詠むことがあったが、御幸における彼の仕事は先発隊として、一行の旅がスムーズに進むようにすることだった。今の言葉でいうと「パシリ」である。熊野御幸に加わったのは定家が40歳の時。出世の遅い定家は当時、少将であり、自分の息子のような年齢の中将たちに軽んじられることを大いに不満を感じていたようだ。多くの貴族が様々な理由をつけて熊野御幸への同行を断る中で、定家が参加したのは後鳥羽上皇とその側近の実力者・内大臣右近衛大将(ないだいじん うこんえのだいしょう)・源通親(みなもとのみちちか)に近づき、取り立ててもらうことにあった。

「熊野御幸」
「熊野三山のイロハ」
「後白河上皇はなぜ34回も熊野御幸をしたのでしょうか。」
「源通親」

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