日本史

戦国時代、鰹節は優れた携帯食だった

2014年7月1日 19:23

徳川家康、秀忠、家光の三将軍に仕え「天下のご意見番」といわれた武将・大久保彦左衛門。気骨ある生き方は大衆の人気を集め、講談や歌舞伎のモデルとなった。この彦左衛門が常に携帯していたのが、鰹節。晩年に執筆した『三河物語』という書物の中で、「鰹節の上皮を削って帯にはさみ、戦の前やひもじいときに噛めばことのほか力になる」と記している。「鰹節=勝つ男武士」という語呂の良さもあり、彦左衛門の他にも好んだ武士は多かったようだ。鰹節は77%がたんぱく質で、高血圧の予防や筋肉の動きを高めるカリウム、歯や骨を作るリン、 カルシウムやリンの吸収を良くするビタミンDなどを含んでいる。戦場での食べ物としてはなかなか優れている。
もっとも、当時の鰹節は私たちがイメージするものとはずいぶん異なっている。
現在の鰹節は、
●生利節(鰹を三枚におろして茹たもの)、
●荒節(あらぶし、生利節を燻製にしたもの)、
●本節・枯節(荒節にカビを付けることにより水分を抜きながら熟成させたもの)
があるが、現代のような荒節、本節・枯節は戦国時代には生まれていなかった。室町時代に、干しカツオに「焙乾」という技術が導入され「鰹節」ができた。江戸時代に入る前から、焙乾小屋は、五島・平戸・紀伊・志摩・土佐各国のカツオ浦に建てられたが、当初の焙乾設備は台所兼用のもので、囲炉裏の上にしつらえた平籠に卸したカツオを入れておくと、煮炊きする熱と煙により自然と焙乾されるもの。 強力な燻製やカビ付けなどは行われていない。
江戸時代初期に北九州方面で造られた鰹節は、ポルトガル船・イギリス船などにより、平戸から琉球(沖縄)を経て明国・シャム国などに輸出もされたようだ。その後、鰹節が広く世間で名声を得たのは、紀州の焙乾小屋が改良されて鰹節が進歩を始めてから。大坂堺港の大商人や、京都の上流家庭で煮物・汁物料理が盛んになるにつれ、従来の調味料だけでは物足りなくなり、旨味を付加するために鰹節がだしとして用いられるようになった。
彦左衛門らが食べたのは、自然に焙乾された初期鰹節ではなかったか。
ちなみに、彦左衛門は共に家康のために戦った井伊直政が病気でふせっていると聞き、鰹節を持って見舞いに出かけ、贅沢を戒め、自分のように鰹節を食べるように勧めたという。彦左衛門は当時としては珍しく80歳まで生きたが、鰹節の効き目が大きかったのかもしれない。

「大久保彦左衛門」
「三河物語」
「鰹節ができるまで」
「にんべん」鰹節の歴史

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