日本史

戦前の夏の甲子園大会で活躍した台湾チームを描いた映画が大ヒット

2014年9月12日 17:14

第二次世界大戦前は、当時日本領であった台湾、朝鮮、関東州(※1)などいわゆる外地の学校の野球部も全国高等学校野球選手権大会(当時は全国中等学校野球大会)に出場することができた(春は台湾のみ)。1931年の夏の第17回甲子園大会では、松山商野球部を初の全国出場に導いた名監督・近藤兵太郎(こんどうひょうたろう)に率いられた嘉義農林(かぎのうりん)が大旋風を巻き起こし、準優勝を成し遂げた。近藤が監督に就任してから3年目のことであった。準優勝したチームのレギュラーメンバーは、台湾本島人(※2)2人、先住民族高砂族(たかさごぞく)4人、日本人が3人であった。準々決勝で8盗塁を記録するような快足チームだった。その後も嘉義農林は甲子園で活躍。メンバーの中には、のちに巨人・阪神で大活躍し、野球殿堂入りした呉 昌征(ごしょうせい 後に帰化して石井昌征(いしいまさゆき)となる)(※3)もいる。
2014年には、1931年の夏の大会で準優勝したチームを描いた、青春映画『KANO』が台湾で大ヒット。プロデューサーの魏徳聖(ウェイ・ダーション)は、「日本人、台湾人、原住民の三民族が明確に階層化されていた時代に、それぞれの存在価値を認めながら自己実現を果たした歴史的な事実をまず知ってもらいたかった」と語る。日本では2015年に公開されることが決まっている。
※ 1
関東州は、中国大陸の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借地である。1905年日露戦争を終結させたポーツマス条約に基づいてロシアから日本に租借権が移行した地域で、1945年、日本の敗戦により機能停止した。現在の中華人民共和国大連市の一部地域(大連及び旅順地域)などに該当する。

※ 2
日本が台湾を領有していた時代、台湾に本籍地を有する日本国民だった者を「本島人」と呼んだ。今日の台湾人。

※ 3
呉昌征:大正5(1916)年、台湾台南生まれの本島人。終戦の29歳まで日本人。正式な台湾名は呉波(当時の日本式発音では、「ご は」。現代の台湾発音では、「Wu Bo」。)呉昌征は登録名。「昌征」という名前は、呉の恩人の息子につけられた名前を「自分にも(その名を)分けてつけさせて下さい」といって変更したものらしい。引退後、日本に帰化し、石井昌征と改名。
嘉義農林学校で近藤兵太郎監督のもと、春の甲子園大会1回、夏の甲子園大会に3回出場。裸足でグラウンドを駆け回るプレーから「人間機関車」の異名をとった。台湾人初のプロ野球入り。1942年と1943年に2年連続で首位打者を獲得。盗塁王も獲得。投手兼任外野手でもあり、戦後初のノーヒット・ノーランも記録。戦時中、プロ野球が一時廃止された時は阪神電鉄職員として甲子園球場を芋畑に変える現場監督を務めた。嘉義農林で学んだ農業技術が役立ったとのちに語っている。日本球界初の20年以上の実働選手。1995年に特別表彰により日本の野球殿堂入りを果たした。

「全国高等学校野球選手権大会」
「【衝撃野球動画】台湾人選手初の殿堂入りを果たした「人間機関車」こと呉昌征選手の野球人生」
「KANO」
「映画『KANO』―甲子園大会で準優勝した台湾代表の物語」
ぱぶー電子書籍「人間機関車・呉昌征」
「呉昌征」
「猛虎人国記(18)~外地~」
「【6月16日】1946年(昭21) 盗塁王・呉昌征 戦後初のノーヒットノーラン達成」

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